2011年05月26日

report4 被災の瞬間

我々、第7次派遣班は、初日から誰彼かまわず挨拶し、住民の方には積極的に案内し続けた。

誤解を恐れずに言えば、岩手県の方々は辛抱強く、そして礼儀正しい。何時間も列にならび順番を待っている。
「じょっぱり魂」と呼ぶらしい。

業務は立ちっぱなしだが、何て事はない。
しかし、それすらも今の職員数ではできない状態だ。
それよりも、住民の方の相談を受ける方がきつかった。
地元でない我々が、そう簡単には答える事はできないが、それでも職員の負担を少しでも軽減させたい。
その反面、あまりにも生々しい現実を聞く事になる。

町民からの相談例
・家は半壊だが、取り壊したほうが良いのだろうか。
・避難所で風邪をうつされておばあさんが亡くなった、町で火葬費等を負担してくれるのか。
・半壊と判定されたが撤去したら全壊扱いとなるのか。
・車の税金、廃車について。
・仮設住宅は空いていないか。
・両親が行方不明だが書類は何が必要か。
・取り壊す前に家の姿を目に焼き付きたいので連絡してくれないか。
・その他多数

被災体験
・2階に避難したが、右手側から火の海が迫ってきた。妻は逃げ遅れた。
・妻が銀行員で、妻を含め4名だけが残った。妻が1階のシャッターを下ろした瞬間に津波がぶつかった。妻は一旦沈んだが、2階にいた仲間が引きずり上げた。避難していた子供たちには「おかあさんはダメかも知れない」と伝えたが、しばらくしたら重油まみれの妻が高台の避難場所に上って来て再開した。
・地震直後、山から下りて来た職員と来るまですれ違ったが、それっきりとなった。
・車が流されてきてご遺体が中にあったが、何もできず引き波によりそのまま流されていったことなど。

これ以上の話しは記せない。

震災から2ヶ月経過し、義援金や支援金の受取りがようやくできるようになり、住民は仮庁舎に集る。そこで、再会を果たし涙なからに抱き合う姿を見た時はさすがにきつかった。

そして人の親としてさらにきつかったこと。
大槌小学校は少し小高い丘にある。目測だが海抜15m前後だと思う。
そこを津波が襲った。さらに重油に火がつき校舎は燃えた。

小学校高学年は授業中だったので助かったが、帰宅させた低学年や園児たちが亡くなり、安置所にはかなりの数のご遺体があったとのこと。

多くの小さい命が奪われた。

大槌小学校。かろうじて無事だった場所で義援金の配布が行われていた。
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校舎の中から。
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数々の遺留品。
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玄関にはお菓子と花束が。
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この写真の直前まで親子は手を固くつないでいた。
この先は避難所。
近づくにつれ、その手を離した。
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つづきは災害写真
posted by yojibay at 17:48| 日記